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1 学区の昔

 明治の初めのころ、猪子石小学校の学区は、香流小学校や引山小学校の学区の辺りを中心とした愛知郡猪子石村の一部でした。そのころは、わたしたちの学区の大部分は、うっそうとした山林でした。
photo 明治39(1906)年、上社・一社・高針の辺りにある愛知郡高社村と合併し、愛知郡猪高村となりました。このころもまだ学区の大部分はうっそうとした山林のままでした。このような状態は太平洋戦争も終わった昭和の後半の時代まで続きました。
 明治時代の猪高村の産業の中心は農業でした。ほとんどの農家では米作りのほかに絹糸をとるためのかいこを飼ったり、たばこの葉を栽培したりしていました。しかし、昭和15(1940)年ごろから戦争のため食料が不足しほとんどの農家がかいこを飼うことやたばこの葉の栽培をやめてしまいました。現在は、その面影は見られません。
 猪高村が名古屋市への合併を願い出たのは、昭和11(1936)年のことです。しかし、合併はなかなか実現しませんでした。
 昭和28(1953)年に町村合併を進める法律が制定され、全国的に合併がさかんに行われるようになりました。当時の猪高村の人々は、合併によって市バスが通るようになるなど、生活が豊かになることを期待して合併にあこがれていました。
 昭和29年、村議会は満場一致で合併をする事を決め、名古屋市議会でも合併が決められました。また、県議会でもそれが認められ、長年の願いが実現されることになったのです。
 昭和30年4月5日、猪高村はついにphoto名古屋市に合併されて、名古屋市千種区猪高町になりました。しかし、猪高町はまだ見渡すばかりの山・森・田畑でした。
 昭和37年ごろから、猪子石地区の区画整理が始まりました。山がけずられ、土地がならされ、道がつくられました。それは、約424ヘクタールにおよぶおおがかりなものでした。現在の猪子石小学校の周辺は一時「猪子石砂漠」と呼ばれたほどの何もない宅地造成地でした。このようなところに、猪子石小学校はつくられたのです。
 区画整理前までは山と田畑ばかりだったphoto猪子石の学区にも、どんどんと住宅が建てられ、商店もできるようになりました。
 その後千種区猪高町の人口が大幅に増えたために、昭和50(1975)年に千種区から名東区という新しい区が生まれました。
 道路もますます整備され、市バスもたくさん通るようになり現在のように住宅の建ちならんだ新興住宅地としての学区の姿になりました。



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