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2 寺子屋~戦争が終わるまで

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  寺子屋
 130年ぐらい前までは、学校というものがなく、猪子石村には寺子屋が三つありました。村の子どもたちの中には、そこに通って読み書きを習う子がいました。
  香流学校
 明治になって、日本の学問が外国に比べておくれていることがわかったので、明治5 (1872)年、全国に学制がしかれ、学校がつくられることになりました。
 明治6年、月心寺の中に香流学校ができました。猪子石村の子どもたちは、そこに通うようになりました。このころの勉強は、句読・習字・算術などが主なものでした。
 明治34年には、高等科もつくられ、学校の名が香流尋常高等小学校に変わり、小学校4年を卒業した子で、希望した子は高等科へ進むことができました。
  学校の廃校
 明治39(1906)年、それまでの猪子石村と、高社村が合併して、猪高村が誕生しました。そこで、明治45年、もとの猪子石村と高社村の境の山の中、上社の丁田に猪高村立猪高尋常高等小学校が新しく建てられました。photoこの時、猪子石村にあった小学校は廃校になり、村の子どもたちは、新しくできた小学校に通うことになりました。しかし遠い家の子どもは、山の中の細い道を40分も歩いて通わなければなりませんでした。そのため大正8(1919)年、もとの香流小学校の校舎を使って、北部分教場を開くことになりました。
 そのころは、もめんの着物を着て、げたやぞうりをはいていました。また、かばんやふろしきに学用品とか弁当を入れて通いました。
  戦争中の学校
 昭和16(1941)年、日本はアメリカ・イギリスなどを相手に戦争を始めました。そのため、学校のようすや家のくらしが、しだいに変わってきました。尋常高等小学校は、国民学校とよばれるようになりました。
 それまでの勉強のほかに、武道で心や体を鍛えることがさかんに行われました。戦いが激しくなリ、猪高村も空襲の被害を受けるようになりました。警戒警報がでると学校は勉強をやめ、子どもたちは防空頭巾をかぶって急いで家に帰りました。
 昭和20(1945)年1月には、空襲が激しくなりました。そのため、4年生以下の子どもは、地域ごとに集まって、勉強をすることになりました。
  戦後の学校
 昭和20年8月、長く苦しかった戦争が終わりました。さいわいにも、北部の分教場も本校も焼けずにすみました。教科書はしばらくの間、戦争中のものを使いました。戦争に関係のあるところは、墨で塗りつぶしました。そして、おじいさんの子どものころと勉強の内容が変わりました。平和な国をつくる人、世界の平和のために尽くす人になるような教育になりました。
 昭和30年、猪高村は、名古屋市のなかま入リをし、名古屋市千種区猪高町となりました。そして、猪高村立から名古屋市立猪高小学校と名前が変わりました。昭和37年、北部分教場から北分校に名前が変わり、昭和38年、北分校は香流小学校として猪高小学校から独立しました。



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