これ、何だか分かりますか? 明治の中期から使っていた校章です。貫禄があって、何やら重厚な感じがします。
 なぜ、これが『びわじま』なのでしょう。
 カタカナの『ヒ』の字が8文字、円周上に並んでいます。『ヒ』が8つで『ヒハ』となります。中に『嶋』がありますので、『ヒハシマ』となるわけです。

 でも、ちょっと待ってくださいね。『ハ』は、『8』ではないはずです。どういうことでしょうか。
 そういえば、『8』は、漢字で書くと、『八』です。実は、カタカナの『ハ』は、漢字の『八』からできた文字でした。そんなことを知ってか知らずか、八個の『ヒ』を並べて『ヒハ』と読ませているところに、この校章を作った先人のセンスとロマンを感じます。

 漢字の『八』は、中国語読みでは『バー』です。『枇杷島』の昔話(枇杷? 琵琶?)について以前に書きましたが、『琵琶』の漢字のもとは、琵琶という楽器の弦を押す時の「ビイン」と、引くときの「バアン」からきていました。「バアン」からできた『琶』、中国語読みの「バー」と同じというのもおもしろいですね。(注:中国語の中では、『八』と『琶』は、違います。日本語の中で同じ音からきているということです。)




 そういえば、左のニセ地図について、別のページ(枇杷島は島だった?)で触れました。ニセ地図といっても、江戸時代に書かれたものであり、その元は平安のものといわれているのですから由緒あるものです。その中には、枇杷島のことが、『ビハジマ』と記されています。

 先の校章に『ヒ』が使われ、左の地図に『ビ』が使われていることに違和感を持った方が多いと思います。いったい、昔のこの地の表記は「ビワジマ」なのか、「ヒハシマ」なのか、「ビハジマ」なのか…。そして、もう一つ、音としてどう呼ばれていたのか。気になりませんか?

 大正生まれの方がいらっしゃれば、お聞きするのが一番よいのですが、当時の読み書きの基準は、現在と違っていたと思われます。これも左の地図が偽物であることの理由の一つになるのですが、濁点や半濁点が現在のように使われるようになったのは、法令文書では昭和21年6月17日「官庁用語を平易にする標準」の策定からということです。大日本帝国憲法には、濁点が見られません。

 それでも、19世紀初頭(1821)の「雅語譯解」には、濁点が使用されています。一般には、カタカナの濁点は、15世紀以降から17世紀初頭に定着していったそうです。それでも、ひらがなの濁点は普及していませんでした。

 つまり、明治中期の最初にあげた校章が『ヒハ嶋』になっているのは当然で、濁点を使用しない表記も普通にあったからだといえます。むしろ、古都の表記がありえなかったということになります。

 では、なぜ、『ビハ嶋』は、『ワ』ではなく『ハ』はのでしょうか。

 「ハ行」の発音は、時代とともに変化してきました。奈良時代までは「は」は、「ぱ」に近い音で発音されていたそうです。その後、平安時代になってひらがなができると、「は」と書いて、「ふぁ」と発音するように変化しました。鎌倉から江戸時代になって、語頭に着く「は」は、「は」と読み、助詞、語中、語尾の「は」は、「わ」と読むようになりました。

 つまり、『びわじま』の『わ』は、語中なので『は』で表記され、読みは「わ」だったということになります。


 さて、結論です。まず、読みは、平安時代以前なら「びぱじま」(平安時代以前にこの地名があったらということです)。平安時代以降なら、「びふぁじま」という発音でした。鎌倉から江戸時代以降に徐々に変化して、現在と同じ「びわじま」になりました。

 次に、表記は、平安時代は「ひはしま」です。それ以前は漢字しかありませんでした。もちろん、それ以降も漢字表記は残っていたはずですが、ここではひらがなとカタカナについてのみ書いていきます。カタカナについては、15~17世紀初頭に「ビハジマ」と書かれることがあり、19世紀になるとひらがなで「びはじま」という表記も出てきます。ただ、いつもその表記があるわけでなく、「ヒハシマ」という表記も多かったのでしょう。校章に『ヒハ』となっているのもその証拠です。昭和21年、吉田茂内閣になって、「現代かなづかい」が制定されて、現在の「びわじま」という表記になりました。


参考文献
 昭和21年11月内閣訓令第八号内閣告示第三十三号 現代かなづかい
 What an Interesting World

 「図説日本語の歴史」今野真二著 河出書房新社

 日本語表記の歴史 6

どう読む? ヒハシマ

1821年発行の「雅語譯解」に使用されている濁点