本文へスキップ

ー Amakoda Elementary School −

TEL. 052-772-6555

(対応時間:平日 8:15-16:45)
名古屋市守山区天子田2丁目1501
FAX.052-776-4951 MAIL:amakoda-e@nagoya-c.ed.jp

学区の紹介AREA INTRODUCTION

天子田学区の様子
 学区は、東西に二.二`b南北に八〇〇bと、東西に細長い。学区の東には東名高速道路が、西には名古屋環状二号線が走っている。また、学区内を東西に十六メートル道路が走り、北は矢田川が流れている。
 江戸時代には、春日井郡大森村と呼ばれ、矢田川中流の北側にあり瀬戸街道沿いに発展した村であった。村は矢田川の氾濫で、たびたび浸水することがあった。そのため、江戸時代中期には農家が十六戸あったにすぎない。現在の天子田一丁目から四丁目までの、矢田川と十六メートル道路に挟まれた地域は、一面田んぼであり、農家は水害を避けるため、定納・山屋敷・六ヶ塚と呼ばれる台地(現在の向台)に移り住んでいたと言われている。
 昭和四十三年(一九六八年)から区画整理の大工事が始められ、道路は現在のような区画に整理され、アパートや住宅が次々と建設され、人口も増加した。 現在、学区は、北側には町工場や民家が、南側には畑や民家が多い。ここ数年特に原境に新しい家が建ち、学区西側での人口が増えている。       
郷土資料室
 学校内には、郷土資料室が作られ、実物大の牛の模型や昭和初期の農機具、当時の遊び道具などが展示されている。 これらの展示物は、土地区画整理事業により、昔の面影がなくなってしまうことを残念に思った職員の呼びかけと地域の方の賛同により、学区の方から提供していただくことで、実現した。
 現在では、三年生の昔の人の暮らしを学習するときに、大変役立っている。
ねぎどん塚・おさ塚・六ヶ塚
 天子田学区には、ねぎどん塚・おさ塚・六ヶ塚など、古墳時代の塚が幾つもあった。しかし、区画整理や東名高速道路建設時に消滅した。ねぎどん塚は、天子田小学校のすぐ南西にあった。古墳時代(四〜七世紀頃)に造られたお墓で、東西に長く瓢箪型をしていたが前方後円墳かどうかは定かでない。
 おさ塚は学区の東端に、六ヶ塚は学区の南端にあった。古墳時代に、この辺りには力の強い人が住んでいたことが分かる。      
下市場公園       
 学区の西方に位置し、東西百五十b、南北七十五bの大きな公園である。公園内には野球ができるグランドもあり、利用者が多い。公園の東には遊具があり、子どもたちの遊び場になっている。
 下市場の地名は、梁田出羽守正政綱が築いた米田城(別名梁田が城)の城下で近在の農民たちが決められた日に生活物資の交換会、すなわち「市場」を開いたのが起源と言われている。
定納公園あたり(米田城)
 「寛文村々覚書」大森村の侯にある城跡で、東西三十.二五間(五十五b)南北二十七.五間(五十b)あったと言われる。
 「東春日井郡誌」によると、明治維新頃まで堀の跡または塀の跡があったが、大正十二年時点には耕されて畑になっていると書かれている。区画整理前の地図を見ると、北側は急な崖で東から南側にかけて掘らしきものが認められる。現在城の遺構は見あたらない。
 米田城は別名梁田が城と呼ばれ、城主は梁田出羽守政綱であった。政綱は春日井郡九之坪の城主で織田信長に仕えていた。
 永禄五年(一五六二年)五月の桶狭間の戦いで、信長は今川方の本陣を奇襲して義元に勝利をした。この勝利のかげには政綱の大きな働きがあった。政綱は家来に命じて今川軍の動きをさぐらせ、義元が桶狭間で休憩しているのを発見して、ただちにそれを信長に知らせ、奇襲することを進言したのであった。
 戦後この功によって政綱は三千貫文の地を与えられた。その当時は敵の大将の首を得た者に最高の恩賞が与えられるのが普通であったが、義元の首級をあげた毛利新助をさし置いて、政綱に最高の恩賞を与えた。信長が戦の中で情報を重視したことを物語るエピソードである。

バナースペース

名古屋市立天子田小学校

〒463-0037
愛知県名古屋市守山区天子田
2丁目1501番地

TEL 052-772-6555
(対応時間:平日 8:15-16:45)
FAX 052-776-4951
MAIL amakoda-e@nagoya-c.ed.jp