このことから、この頃には焼き物に携わった人がいたと思われます。
この窯跡は、東山古窯址群に含まれます。東山古窯址群はやがて東、北、南の方面に伝えられて猿投山西南山麓古窯址群を形成。奈良時代中頃には猪高にも伝わり、日進、東郷、猿投から瀬戸へ伝えられて瀬戸焼となりました。また、猿投から緑区、知多、常滑へ伝わり常滑焼になりました(※2)。
梅森坂学区は北の高針村(高針小の南辺り)と、南の梅森村(日進市の梅森西交差点辺り)に挟まれた場所で、旧荘園八事荘植田村の一部でした。植田村の小字に「梅森坂」があり、現在の梅森坂学区と、植田北・植田東学区の一部がその範囲でした(※3)。
明治39年4月に、植田村は平針・島田・野並・八事村と合併して天白村になりました。
高針と梅森を結ぶ道(梅森坂交差点から平針方面へのバス通り)は、昭和になっても農道程度の細道でした。起伏も激しくて大八車も通れず、梅森村の人たちは岩崎回りで高針へ出たそうです。昭和14年になって、やっと幅4メートルの道が完成し、梅森・東山公園間に名鉄バスが走るようになったのは、昭和23年のことだったそうです(※4)。
昭和15年、現在の国立東名古屋病院の場所に、梅森光風園という療養所ができました。その周りは常緑樹が繁茂する緩丘陵地で、人家から離れた静寂な高燥地(土地が高く湿気が少ない)、かつ空気清澄なところだったという記述があります(※3)。
昭和22年撮影の航空写真を見ると、今の学校の辺りはほとんど山林で、光風園のものらしき建物が見えます。梅森坂西二丁目の辺りは、浅田名古屋線沿いに少し建物が見えますが、ほとんど耕地のようです。梅森坂西一丁目はほとんど山林です(※5)
昭和30年4月に、天白村は名古屋市と合併して、昭和区天白町となりました。このとき、猪高村も名古屋市と合併して千種区猪高町となりました。
昭和50年に名東区が誕生しました。梅森坂学区はこのとき昭和区でしたが、地理的条件・交通手段・生活圏などから名東区の区域に含められました。また、天白町は天白区になりました。
猪高町と天白町の字名の梅森坂にちなんで梅森坂一丁目から五丁目、梅森坂西一丁目と二丁目はこの辺りを西町と呼んでいたため、昭和62年8月からこの地名になりました(※2)。
参考資料
※1 梅森の歴史:昭和60年6月30日発行:梅森の歴史研究会編
※2 名東区制20周年記念誌:平成7年2月発行:名東区区制20周年記念事業実行委員会編
※3 天白村誌:昭和31年5月3日発行:天白村誌刊行会(編纂主任 隅田庄太郎)
※4 猪高村物語:1988年12月15日発行:小林元著
※5 鯱 空から見た戦後40年の変貌:昭和62年4月1日発行:名古屋市航空写真刊行会編
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