絵札 読み札 説明文
 中部に住む外国人の子供たちの教育のため、1968年に建てられた。この地域ではただ一つのインターナショナルスクール。3歳〜17歳までを対象に全て英語で授業。自主性を重んじた校風だが、世界の大学に入学できるような高度な学習も受けることができる。
  志段味の歴史は、現在、旧石器時代末(約1万年前)から始まると考えられている。樹木遺跡から出土した槍先形尖頭器が、その時代をあらわしている。名古屋 を含む尾張東部では確実に旧石器時代と考えられる遺跡が確認されていない。つまり、志段味はこの地域で一番古くから栄えた地である。
  昭和20年(1945)3月24日の深夜から25日の未明にかけて、アメリカ軍による空襲があった。B29爆撃機から21個の爆弾が落とされ、被害は12 名死亡・重傷1名・家屋の全焼一戸・全半壊五戸に及んだ。場所は富士塚から下寺林にかけての坂である。その悲惨な事件を忘れないために、その坂を「ばくだ ん坂」と呼んでいる。
 八幡神社は秋頃になると自治会と地域の子ども会が中心となってもち投げが行われる。八幡神社の周りには緑が沢山あり、生き物もたくさん住んでいる。自然豊かな神社。
  ハッチョウトンボ属は、世界に4種1亜種が知られ、日本には最北進種が生息しています。 腹長17〜19mmと一般のトンボと比べると極端に小さく一円玉 (直径20mm)におさまるサイズです。 学名にも「小さく生まれたもの」という意味のNannaphiyaと「小人族の」というpygmaeaが重ねて 付けられている。 
ハッチョウトンボは特殊な湿原で発生するため、産地も減っている。 現在、志段味でも生息地はごく一部で守っていきたい。
  諏訪神社の拝殿の右側に廿二夜塔(にじゅうにやとう)がある。これは昔から伝わる(月齢で)二十二日の夜に月待ちをすれば願い事が叶うという信仰である。  今でも八月の二十二夜に、この塔に提灯を飾り、お供物をしてお祈りをする、二十二夜様が諏訪神社でとり行われている。
  昔、上・中志段味は旧暦7月22日(二十二夜様)、下志段味は23日(二十三夜様)、吉根は旧暦8月の十五夜にオタチマチという願掛けをしました。家族や 親戚が氏神様に集まって、日が落ちてから立ったままで月が昇るのを待つのが習慣でした。願の目的は、病気の長患いの治癒と家内安全だったそうです。
 八方山は吉根で一番高い山であり、天気の良い日には白山や伊吹山が見えるときもあるなど、非常に眺望が素晴らしい。昔は春と秋の彼岸の中日には、年寄りも女も子供も皆で八方山へ登って、にぎり飯を食べ、きのこ探しをしたりして遊んだものだという。
 平成になってから開発が進み、たくさんの住宅や大型ショッピングセンターなどの商業施設が建設され、大きく変化しつつある志段味・吉根地区は、市内有数の自然の宝庫であった。その自然を守ろうという動きとともに、これから新しく住む人たちを優しく迎えようとしている。
 東谷山は、名古屋市の東北に位置し、標高198.3mで一番高い山である。日本カモシカが現れることがニュースになるなど、自然環境も豊かである。歴史的にも旧石器時代の終わり頃までさかのぼり、数々の神話も残される神秘的な山である。
  旧暦6月30日、東谷山の尾張戸神社境内で行われる祓いの行事。毎年新しい茅を直径25p程度の丸束にして、直径約2mの小判型の輪を作り、祓いの祝辞の あとに参詣者は神官を先頭に8の字型に3回、この輪をくぐり抜ける。終了後、この輪に用いた茅を抜き取って小さな茅の輪を作り、各自の戸口の上に掛けて家 内安泰を願う。
  2005年3月に日本で初めてとなるチベット仏教寺院が完成した。 ユネスコの世界遺産に登録された中国・チベット自治区のポタラ宮殿内にある「大昭寺」 を縮小再現。 チベットの高僧、故ボミ・チャンバ・ロドロ氏のもとでラマ僧になった森下永敏住職が日本にチベット仏教を伝えるため、ボミ氏の遺志を受けて 建立した。 寺院名は「強巴林」(チャンパリン)。「強巴」はチベット語で弥勒菩薩(みろくぼさつ)「林」は寺院を表す。
  庄内川・濃尾平野を眼下に見下ろす守山の景勝地にたたずむ龍泉寺。天正12年、小牧長久手の役のおり、池田勝入の部下により放火焼失。明治39年に再び放 火にあい、ほぼ全てが灰と化したが、焼けあとから慶長小判100枚が発掘されたので、それを基金として本堂が再建。今に到る。毎年2月3日の「節分会」に は、数万人の参拝者で賑わうことでも有名だ。
志 段味・吉根地区は、名古屋市の北東部に位置し、起伏に富んだ地形と庄内川を中心とする水系をもとに豊かな自然環境を育んできた。市内では見ることのできな い生物を発見することができる所である。現在、新しい町づくりが進んでいるが、まだまだ里山のなつかしい風景も多く残り、ビル群も少なく、空は青く広い。  また、ここで暮らす人々も自然体であったかい。
15   昔、龍泉寺への参詣道(竜泉寺街道)として、にぎわいを見せた道は、昭和59年から始まった。名古屋市吉根特定土地区画整理事業により、より広くより便利 なメインストリートとして生まれ変わりました。今では、ガイドウェイバスも通り、名古屋の都心まで30分ほどで行けるようになり、町の発展になくてはなら ない道路です。
  東谷山の山頂にある尾張戸神社は、尾張氏の氏神である天火明命(あめのほあかりのみこと)などを御祭神とし、疫病除けの神として知られる。923年には延 喜式に記されている近隣でもまれな古社である。また、近世には、名古屋城の鬼門の守護神として徳川藩主より崇敬された。
  庄内川を横断するための橋がなかった時代は、人や物などを渡し船にのせて渡った。 そのため、多くの渡し場があった。 岩瀬・入尾・大日・大留・神領・野 田・桜佐・下津尾・松河戸・勝川などがあり、同渡しは、昭和40年頃まで実働していた物もあり、龍泉寺の縁日の日には、多くの人が利用していたという。
  区画整理が行われる前までは、竜泉寺街道に面して建っていたが、今は、新しい竜泉寺街道ができたため、旧街道は交通量もほとんどなく静かな場所に建ってい る。 寺は曹洞宗。 守山区大永寺町にある大永寺の末寺。 久岑寺は同じ曹洞宗の寺であるが、瀬戸の雲興寺の末寺。 本尊は十一面観音。 江戸から明治に かけて寺子屋がおかれていて、明治の初めにはおよそ20人の生徒がいた。
 志段味古墳群のひとつである勝手塚古墳(前方後円墳)の後円部の墳頂に勝手神社がある。創建は古く、南北朝時代だと伝えられている。
 カワセミは川や湖、海岸の近くの森などに住み、水に飛び込んで魚やエビをとって食べている鳥。早朝に学区内の池で食事などをしている。
  昭和三十六年の年末に白鳥第一号墳で、発見された。 このような完全な形で発見されたのは珍しく、新聞でもとりあげられた。 この古墳は、六世紀後半ごろ のもので、この地を支配していた豪族の墓のようだ。 出土品は、須恵器の短けい・つぼ・平瓶・たかつき・鉄ぞく・くつわ鏡板・土師わん・直刀片・めのうの 原玉の名一点である。
  庄内川の別名。夕立山(岐阜県恵那市)から伊勢湾(名古屋市港区)まで96qに渡って流れている一級河川。この川は岐阜県内では「土岐川」と呼ばれ、愛知 県春日井市辺りでは「玉野川」とも呼ばれている。昔は「おおかわ」と呼ばれ、しばしば氾濫し、大変だったことが伝えられている。
 上志段味地区の貴重な古墳群を名古屋市教育委員会が土地を買い取って保存する計画が進んでいる。破損した古墳を復元するほか、見学者向けに埴輪などを並べる。国の史跡指定を目指す。
 即身仏とは、なま身のまま仏になること。 守山パーキングのあたり の地名(東禅寺)にはこんな話が伝えられている。 昔はあった東禅寺の通源和尚が、庄内川の氾濫による飢餓・疫病をなげき悲しんで「庄内川をなんとかせん とあかん」と言って、川の上流 (岐阜県恵那市)まで行き寺を再興し、自ら石室を造り、弘法大師の石像を抱いて入り、食を断ち、お経を唱えながら仏になっ たという。
  中秋の名月(旧暦8月15日)を「十五夜」としてお月見をしますが、「月見どろぼう」という風習があります。軒先や玄関にある十五夜のお供えを、子どもた ちが盗み食いしてまわるというもので、お供えする側も多めに盗みやすい所に置くのです。盗み食いされるほど縁起が良いと言われています。
  庄内川と緑地に囲まれ、自然豊かな吉根地区は、昭和48年吉根地区の区画整理のプロジェクトチームが発足してから30年余。当初千人ほどの小さな農村から 一万人以上の人々が暮らす町に変貌した。5・6世紀頃に造られた古墳の時代からこの土地の人々が受け継いできた伝統や文化が、さらに発展しますように願 う。
  毎年田植えの水が引き込まれた田んぼに大ナマズがバチャバチャはねる。ナマズはペアでいることも多く夜カーバイトを灯して網を持って追っかける。大興奮の 時間。獲ったナマズはかば焼きにした。 料理するのは大変で、出刃包丁の刃が欠けるほどだった。 五年物になると、80cmぐらいにもなり、まさに、田ん ぼの主、威厳があった。
  中志段味大洞口一帯の小川と守山区と尾張旭市境にまたがる滝ノ水池を水源とし、庄内川へと流れる2.1kmの一級河川。 昔はゲンジボタルがとびかうほど 自然豊かな川だった。 現在、長戸川一帯は、中志段味・下志段味二組合による土地区画整理事業が行われており、環境が大きく変わり、野添川地区同様に「多 自然型川づくり」の河川改修が行われている。 ふたたびホタルなどが住める川にしたい。
  遊歩道は吉根から上志段味東谷山(予定)までの全長約6kmの自転車・歩行者専用道路。 ところどころにベンチもあり、景観もよく、子供からお年寄りまで 誰でもウォーキング・ランニング・サイクリングが楽しめる最適コースとなっている。 東谷山は入り口から山頂まで約20分のコースで健脚な人向き。 庄内 川はまだ整備されていないが、河川敷のさわやかなコースが楽しめる。 
将来この3つがつながる夢のまちが誕生するだろう。
 人口がどんどん増えている志段味地区。その中でも志段味西小学校は年々児童数が増え、平成19年に吉根小学校ができ、平成24年には下志段味小学校が新設されます。吉根橋近くにある吉根地蔵は、そんな小学生達の安全を願って見守っています。
 200年ほど昔のことです。志段味村の久岑寺に満瑞という小僧さんがいました。久岑寺の本堂の工事が始まって、大勢の人夫たちが大黒柱の土台石を運ぼう としたが、ピクリとも動きません。それを見た満瑞さんはニコニコ笑いながら一人で石を持ち上げ運びました。「この力を村の衆のために役立てよ」との和尚の 教えを守り、堤防が大雨で切れた時お寺の門扉を外して、水の流れ込むのを修理の間防ぎました。
 名古屋市内でありながら、今尚多くの自然を残す志段味中学区。 日が暮れると澄んだ夜空には多くの星が瞬きます。 そんな星空を眺める志段味っ子たちの眼差 しが、はるか遠くを見通す「ハッブル宇宙望遠鏡」のように、壮大な宇宙の謎を解き明かす日がいつかきっとくるでしょう。ハッブル宇宙望遠鏡…地上約600km上空の軌道上を周回する。 地上からでは困難な天体観測が可能。 
 農薬のない昔、田の草取りも終わり、稲の花の出来る頃、浮塵子の大群が稲に群がって稲の生育を害しましたので、その浮塵子を追い払うために、夏休みの子供達が、太鼓を叩きながら「ウンカの神送りのーホーイホイ」と畦道を歩き回った風習がありました。
 井戸は昔、農家の人達が自分たちの飲む水や田畑に引くため、お金を出し合い造った。以来、井戸は増え、各家庭に置かれるようになった。現在でも使われている所がある。
 野添川は守山区上志段味のカケヒ池より北西に流下し庄内川へ合流する延長8.5kmの河川。 この川は上志段味と中志段味を分ける川です。 サギやカルガモなどの野鳥がとびかい魚やカメなどさまざまな生き物が仲良く暮らしています。
  大久手池は古墳時代に築かれた可能性がある古い池です。 ホウジロ、ツバメ、モズといった野鳥がくることから、名古屋市野鳥保護区に指定されていて、今で も数多くの自然が残っている池です。 かつてこの一帯のあたりに帆立貝式前方後円墳があり、名古屋市はこの台地一帯を「歴史の里」として、保存管理する計 画を織り込んでいます。
 モチノキ科モチノキ属の常緑高木。あまり高くならず葉は楕円形。秋から冬にかけ真っ赤な果実をつける。中志段味墓前のクロガネモチは墓地の中に静かに佇む。
 安田池は南原第三公園の近くにあり、昔お百姓が田んぼのために作った稲作用のため池。食用蛙がたくさんいる。他にもカメ・コイ・ブラックバスなどの生き物に加えてヌートリアも住んでいる。 また、さまざまな湿性植物もあり、自然が豊かなところです。
 マメナシは平池にあり、絶滅危惧種とされている、とても貴重な木です。マメナシの実はさくらんぼよりも小さく、花は白いです。近所の人達はそんな「マメナシ」の木を大事に見守っています。
  寒い冬の日。 名古屋(大曽根・小幡)方面から龍泉寺の坂を越えて吉根・志段味方面に向かう時、ビックリするような光景を目のあたりにする時がある。 川 端康成の「雪国」の一シーン「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった。…」のように。 同じ名古屋であるのに雪国に来たかのような素晴らしい景 色がそこに広がる。
  東谷山フルーツパークは、名古屋で一番高い山(東谷山)の西側一帯にあり、広さは名古屋ドームの約2倍。温室には95品種260本、果樹園には170品種 1100本の植物があり、とても良い香りがする。全国からの観光客も訪れ、特に桜の時期は花見客で賑わう。名古屋有数の観光地である。
 名古屋市内に残る古墳のうち、半数が守山区内にある。志段味地区東谷山の麓に最も古い(四世紀末)に造られた白鳥塚古墳を始め、大久手・勝手塚・大塚古墳が残存している。吉根地区には、東禅寺・日後・笹ヶ根・深沢・上島・松ヶ洞古墳群が残る。
 円空(48歳)は、1676年に龍泉寺を訪れ、一刀彫の馬頭観音像と千体仏などを造った。馬頭観音像は、ゴツゴツとした野性味にあふれ、目を吊り上げた憤怒の形相だが、口元には円空仏特有の微笑みをたたえている。
  テーブルストーンとは、天上石のことである。東谷山には6〜7世紀頃の古墳が40基以上ある。その中の一つ、東谷第三古墳は、雨風などで土が流されてしま い、横穴式石室の上半分である天上石が露出してしまった。その姿がテーブルに見えることから、テーブルストーンと呼ばれるようになった。この横穴式石室か らは須恵質の埴輪のほか、鉄製道具などが大量に出土した。
  八幡神社で行っている冬の風物詩。昔は、火の神様にお参りするために、秋葉講というグループを作って参詣していた。しかし今では、秋葉講の中の代表者が代 参して、お札をいただいている。そのため八幡神社では、秋葉権現(火元迦具土神…ひのかぐつちのかみ)を勧請し、年に一度お祭りを行っている。
 中志段味、上志段味一帯は、昔から亜炭がよく採掘されました。字名で吉田洞などのように洞がつく所には、今も亜炭の坑道が走っています。
 才井戸流は、志段味地区丘陵が庄内川に落ち込むわずかな平地の境に あり、同地区の湧水を水源とした幅1mの全長数百mのせせらぎ。湧水を水源としているため、その清流は今では貴重なもので絶滅危惧種のヒメボタルやヤツメ ウナギ(スナヤツメ)・イチョウウキゴケなどの生息も確認されこれらの生物はキーストーン(要石)になっている。 是非守っていきたい我々の宝である。
  吉根の地名が歴史に登場するのは室町時代の説話集「三国伝記」に「山田庄吉根郷」とあるのが初めてといわれています。 地名の由来は、桔梗(きちこう・き きょう)だった名を、人々が「キッコ」と呼びならわしたことから吉根と書くようになったという説が有力ですが、はっきりしたことはわかっていません。 し かし、野に咲く可憐な桔梗の花咲く里を、いつしか人々は「吉根(きっこ)」と呼ぶようになりました。
 春日井市と吉根を結び、一級河川・庄内川を渡す吉根橋。今では、立派な永久橋がかけられていますが、川が増水するとたちまち橋が流されてしまうことが何度かあり、人々を悩ませました。
  正式名称は、名古屋ガイドウェイバス。 志段味地区は新しいまちづくり「志段味ヒューマン・サイエンス・タウン」構想として整備されてきた。 その一つと して、新しい交通システムを日本で初めて導入したのがゆとりーとラインです。 このバスの特徴は、バスと鉄道の利点を組み合わせたシステムで渋滞がなく、 時間通りに運行が可能。 僕たちの大切な足になっている。
 自転車と歩行者しか通れない道。途中にベンチや公園があり、休憩したり遊んだりすることもできる。道の脇には植物が植えてあり、景色もいい。車が通らないということで、安全な道としてみんなに親しまれ、利用されている。
  狐や狸は人を化かすことがあると言われる。 狐には野狐とクダキツネとがいて、クダキツネは病人に取りつくことがあるという。 昔、志段味地区では、病人 がおかしな仕草をすると、病人の枕もとに油あげを置いておき、それがなくなっていればクダキツネが憑いたと判断された。 事実、クダキツネに取りつかれた 病人が「わしは、○○寺の稲荷だ」と言ったという。 オガミヤ(祈祷師)に祈祷してもらうことがよくあったらしい。
 五輪塔と宝篋印塔からなる石塔群。中世、志段味を支配した豪族・水野一族の石碑であると伝えられている。新東谷山橋西にあったが、現在、土地区画整理のため移されて保管中である。
  長戸川にはかつてうしけ溝、唐曽溝、吉田溝の3本の溝が合流しており、そこにはウナギやドジョウがいました。この川と溝を区域で分け、村人が氏神様でお酒 を飲みながら、そこの魚を1年間捕る権利を買う競りを行いました。競り落とした人以外はそこで魚を捕ってはいけない、というもので、競りの売り上げは全て 消防団の基金にしていました。
  「日本城郭大系」によると、志段味城は、1361年南北朝時代に山林や原野が多かった志段味を水野良春が開発し、下志段味に城を築いたとされている。 最 後の城主は水野作右衛門で関ヶ原の戦いで勝利した福島正則に属していた。 城跡の位置は、古老の言い伝えによれば、二ノ輪の公算が高い。
 120人もの高齢者が生活している。近くには山があり、自然があふれた場所にある。中には散歩道もあり、鳥や虫もたくさんいる。
  二百年ほど昔、久岑寺に満瑞という小僧がいた。ある時、本堂の工事が始まって、大勢の人夫達が土台石や材木を運んでいた。その中でも大黒柱の土台石は五人 掛かりりでもビクともしない大きさで、人夫達は困り果てていた。それを見た満瑞は「わしが運んでみせよう」と言い、石にとりついて力を入れた。すると、石 が動いた。もう一度力を入れ直すと石を持ち上げ柱の元へ運んで行った。それを見た人夫達は満瑞を「大力の志段味小僧」と呼ぶようになった。
  昔、吉根は庄内川が流れていても、河岸段丘という地形であるため、水不足に悩まされていた。 河合利助という人が、水路計画を立てて、明治9年 (1876)に一年の歳月と多額の費用をかけて用水を完成させました。 その結果、吉根は高級寿司米の生産で知られるようになった。 今はかつての神明用 水は使われることはありませんが、今も我々の生活を見守っている。
 志段味学区は他の地区より近所付き合いも深く、お隣のことをいつも気遣って助け合っています。 回覧板を回すとき、ついつい長話をしてしまうこともあります。 いろいろな面で仲良しな学区です。
  志段味ヒューマンサイエンスパーク事業は豊かな自然を生かしたまちづくりと、人と環境に優しい「ヒューマンサイエンス」の創造という理念のもとに産業の高 付加価値と先端科学技術振興のための新しい研究拠点の建設を目指し、現在志段味地区において、公的研究所・理工系大学などの中核研究施設をはじめ民間企業 の研究所の誘致、研究開発系企業の集積及び研究開発施設の整備を進めている。
 才井戸流は源流が河岸段丘下端海抜28mで下志段味の灌漑用水として利用後、庄内川へ放流される小河川で、絶滅危惧種のヒメボタルが生息している。今でも除草および清掃を行っている。名古屋市で蛍を見ることができる貴重な場所である。
  守山高校は、学区にある唯一の高校で、自然に囲まれ、落ち着いた環境で学習している。また、学習科目も多いのも魅力である。校訓「今、ここを生かす」の実 践に向け、「温かく厳しい守山高校」を目指し、「わかる授業」を徹底。また、生徒指導、進路指導を充実させ、生徒の進路希望を実現することに力を入れてい る。
 もち投げとは二種類の意味があって、一つは家を建てたお祝いにもちを投げて祝うためにやります。もう一つは厄年の人の厄払いのためだと言われています。
 明治時代頃、志段味では、はやり病でたくさんの人が亡くなった。その時にこの地蔵を祀って祈った。守山高校の近くの住宅地にある。
  千成びょうたんは、小牧・長久手の戦いで竜泉寺に陣を構えた豊臣秀吉が、庄内川を吉根橋から通過した時に落としていったものだと言われている。千成びょう たんは、金銀二組の大ひょうたん1個、小ひょうたん16個から成っている。当時の吉根村の民は、拾ったひょうたんを馬の塔(オマントウ)の標具とし雨乞い に奉納した。古文書「葎の滴(むぐらのしずく)」にある。
  志段味スポーツランドは、名古屋市のスポーツ施設。緑豊かな丘陵地区に体育館・トレーニング室・野球場・テニスコートなどが揃っている。障害者や高齢者の ための設備も整っている。キッズ・ジュニアのスポーツ教室やエアロビクス、太極拳、ヨガ、フラダンスの教室も開催されている。
 諏訪神社は中志段味村の氏神で、祭神は武御名方命(たけみなかたのみこと)。現在は8月22日に提灯山を境内にともし、盆踊りが行われている。
  この町は1万年も前(旧石器時代末)から人々が住みつき、ときに豊かな自然に守られ、ときに厳しい自然と戦いながら、営々と独特な生活文化を築き上げてき た。(まるでナイル川(庄内川)とエジプト(この町)のように。)シダミンドリーム。やはりこの地には何かが眠っている。この地に住み、また働く人々の夢 は、きっと叶うだろう。