瀬古学区はこんなところです。

 守山区の西はしが瀬古学区です。学区の北を流れる庄内川、南を流れる矢田川、東を走るJR中央本線に囲まれた、ほぼ三角形の形をしています。
瀬古小学校は、学区のほぼ真中に位置しています。



        
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瀬古のおこり 学校付近の土地の高さは、海抜11メートルです。ずっと昔は海の底だったと考えられています。
瀬古学区は、庄内川と矢田川の土砂が積もって、作り出された平地であることがわかります。
消えゆく字名
 福寺 瀬古地区には、石山寺とともに、無量寺、福田寺、光蔵寺、光善寺の五つの寺があったと伝えられています。そのうちの福田寺あとが、福寺になったと思われます。学校が造られる前には、野墓(古い墓)があったそうです。
 宝善寺 ここも福寺と同じように、昔お寺があったところでしょう。名前からみると、光善寺のあとではないかと思われます。
 未新田 未年に、荒れ地や湿地を開墾して新しく田畑にしたところです。それで未新田と呼ばれるようになりました。
 十五 このごろでは、「いそ」とも呼ばれますが、「じゅうご」が正しい呼び方です。
昔、庄内川の堤防が大雨のときよく切れました。これを防ぐため、15才の少年が人柱として堤防に生きたまま埋められました。この少年の埋められた堤防のあったあたりを、十五と呼ぶようになりました。
 柴荷 昔は「柴荷の森」といって木が生い茂っていたそうです。瀬古の人たちは、そこへ「二宮金次郎」(正門の脇にある)のように「柴」を取りに行って「荷」にして持ち帰りたきぎにして、炊事に使ったことでしょう。
 赤目 鉄分の多い土地で、染み出てくる水や沼の水が赤みを帯びていた土地だったのでしょう。
 神明 昔は「神明の森」といって大きな木がたくさんはえていました。この森には、多くの鳥がいました。明治のころには、コウノトリが巣をかけていたそうです。
 高見 石山寺や高牟神社など由緒ある寺院や神社があります。このことから、古くから人が住んでいたことが分かります。土地の低い瀬古学区の中では、比較的土地が高く、遠くまで見渡せることから、高見と呼ばれるようになったのでしょう。
 屋敷 村のことを意味する言葉です。瀬古・幸心ともに「屋敷」という字名が、残っています。村の中心だったのでしょう。
 新堀・元杁・川西 明治9年(1876年)、新木津用水を堀川と結ぶため、元杁樋をつくり、新堀を堀り上げたことから、新しい堀、「新堀」「元杁」とついたのでしょう。川西は以前は字神守地区内でした。
この新堀の西になることから「川西」と呼ばれるようになったのでしょう。
 城跡 源平の戦いのころ山田一族の城「幸心城」がありました。この城は、江戸時代のような立派な城ではありません。堀を掘り、その土で周りを固めた程度で、天守閣などありません。
 馬場・木戸 幸心城の武士が馬に乗る訓練をした場所や、木戸、柵用に造られた門のあったところではないかと思われます。