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下に 掲載した地図は、2013年7月にYahooの地図等を基に制作したものです。 本校学区の概要確認と、本校へのアクセスの参考にと作った素人の手作り地図ですので、 正確さ精度や更新頻度は期待せずにご覧ください。 |
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学校周辺各駅からの所要時間 | |||
栄生(6分) | 本陣(7分) | 亀島(9分) | ||
上記3駅から本校までの時間は、Yahooの地図機能で調べました。 | ||||
◆雑記・笈瀬中学校の名前の由来◆ かつて中村区~中川区に「伊勢神宮」の領地があったらしく、 「お伊勢」→「笈瀬」が言葉の意味だそうです。 笈瀬(おいせ)村(現在の中川区愛知町)、を流れていた川を 「お伊勢川(笈瀬川)」と呼んでいました。 笈瀬川は庄内川の支流で、名古屋駅西「椿神社」の東側から 今の笈瀬通り(「笈瀬商店街」又は「かっぱ商店街」)を流れてい たようです。 下流は「中川」(「中ノ川」他)と呼ばれ、伊勢湾に注いでいま したが、1930年完成の「中川運河」に吸収されました。 同時期の笹島貨物駅整備に伴い、笈瀬川も埋められ、 道路(笈瀬通り)となったそうです。 (以上の文は、各種Webページからの引用を簡略にまとめ たものです。) 地図で現在の本校の位置や本校学区の範囲を確かめると、 記述の笈瀬川や現在の笈瀬通りの位置と些か距離があります。 実は本校の学区は昭和25年と昭和38年に変更されており、 昭和25年の時点で学区だった現「牧野小学校」「米野小学校」 学区が分離し、この時、笈瀬通りは本校の学区から外れたの でした。 ※旧笈瀬川の更に下流に当たる位置(中川区内)に「笈瀬町」が 存在しますが、流石にここは旧学区とも無関係と思われます。 ※ 笈瀬中学校Wiki 現在の通りと古地図から推測すると、笈瀬川はノリタケの森の 東側「西藪下」から「輪ノ内町」~「牛島町」~「則武一丁目」~ 「太閤通口」~「椿神社前」~「笈瀬通」~「米野小学校東」へと、 流れていたようです。 上の地図で見ると、右中の青い「200号線」表示の左の交差点 から、斜め左下「椿町」の文字へと伸びる道路が笈瀬川の跡と 思われます。 今は建物が林立して見えませんが、開校当時は、二階の 窓から南東を流れる笈瀬川が望めたのでしょうか。 ※ 距離で言えば、もっと近い所(本校の西・日比津中の東) を「惣兵衛川」の支流「米野川」が流れていた様です。 最近名古屋明細地圖(1910:明治43年) 名古屋市實測圖(1910:明治43年) 名古屋市街新地圖(1917:大正6年) 大名古屋市街地圖(1922:大正11年) 名古屋市街全圖(1930:昭和5年)まだ笈瀬川はあります。 名古屋市街全圖(1941:昭和16年)笈瀬川はなくなっています。 -------------------------------- ◆雑記2・笈瀬川◆ (笈瀬川に関する資料の提供を受けたので、簡略に記述して おきます。) 庄内川は長い間に大きくその流れを変え、太古にはもっと東 にあった流れは、西へ西へと移動し現在の位置になりました。 この痕跡が、江川・笈瀬川(御伊勢川)・柳瀬川などです。 奈良時代以前頃に中村区の一部と中川区のほとんどが 開墾されて、大規模な伊勢神宮領「一楊御厨」が成立します。 この灌漑のために、当時豊富だった湧き水を水源とし、 上記の庄内川の痕跡川と合わせて改修整備していったのが、 笈瀬川のはじまりと思われます。 他方、「一楊」の名は現在でも中川区内の「一柳商店街」や 「一柳中学校」などの名前にその名残を見る事が出来ます。 笈瀬川は、改修を繰り返されている関係で、それぞれの時 代で流れている地域が一部異なっている様です。 ※以上の事から、JR東海道線より西、中村区以南は、水田には 適しているが、耐震を考えると軟弱な地盤なのだそうです。 日頃から、東南海地震への備えを十分にしてください。 |
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「牛馬水飲み場」跡(枇杷島街道) 本校北西隅の写真 本校西側の道路は「枇杷島街道」と言い、戦前は「千音寺」や 「岩塚」方面から「枇杷島青果市場」(現在の枇杷島スポーツセ ンター)へ、野菜の出荷や買い出しなどの、いろいろな荷物の 運搬に使った道でした。 その当時、この辺りの一郭は、牛馬を一服させ、水を飲ませる 水飲み場だったそうです。 馬車引きの人々は飼い葉桶で餌の藁等を牛馬に与える時に、 此処で水を汲んで与えたと言う事です。 その名残りが写真のタイルの一郭です。 こんな所にも史跡は有るんですね。 ![]() 今ここには、「スタンドパイプ 初期消火資器材」 (消防署管理)が置かれています。(上記写真) ※インターネットで「枇杷島街道」を検索すると、「西枇杷島」を 通る「美濃路」関連の記事に成ってしまいます。 写真の「牛馬水飲み場」が面した「栄生」と中村「大鳥居」を結ぶ 大通りは、古い地図には存在しません。 本校西側を南北に通る件の「枇杷島街道」は、正門前の通学路 ですが、生徒が一斉下校すると車の通行に支障が出てしまうよう な狭い道なのです。 |
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