老松学区の周辺には、この地域だからこそ生まれた文化や歴史が数多く残っています。

昔を想像しながら散策してみましょう。

 大池(麹ヶ池)の東に「冨士見焼」という大きな食器工場がありました。大昔、この地区は大きな池だったこともあり、大池からは、粘土がとれたそうです。その粘土や瀬戸から運ばれたものを使い、さらやちゃわんなどの食器やタイルをつくっていたそうです。日本ではじめてタイルが作られたのがこの土地です。のちに、手狭になったので、昭和区へ、さらに岐阜の方へうつっていきました。ひょっとするといくつかある中部の有名なやきもののひとつは、冨士見焼が前身かもしれませんね。考えるだけでわくわくします。

 鶴舞公園では、明治時代から昭和にかけて、産業発展の証として共進会や博覧会が開かれました。明治に開かれた共進会では、奏楽堂や噴水塔が作られ、栄町から熱田伝馬町、新栄町から鶴舞公園を通り上前津まであった市電に乗り、大勢見物に来たそうです。当時では珍しく会場全体にはイルミネーションが飾られていたとのこと。また、昭和3年には、産業をさかんにするために名古屋大博覧会が開催されました。この博覧会には、東京や大阪をはじめ全国から約10万点の産物が出品されたといいます。
 若宮大通の一本北に位置する「東陽通」は、明治二十七年に開通し、名古屋の目抜き通りとして栄えた通りで、鍛冶屋町(今の栄三丁目)から、千種村までの二千九百メートルの通りを言います。早くから日用品を売って栄えた通りでもあります。この通りには、当時実業家だった山田才吉が建てた二階建て御殿「東陽館」があり、多くの人で賑わっていました。東陽館は、約400畳じきの大広間や、庭園があり、季節を感じさせる趣のある館だったようです。しかし、明治三十八年に惜しくも焼けてしまいました。

東陽通

鶴舞公園

冨士見焼の工場のようす