戦火の中の学校
1941年(昭和16年)には,「名古屋市瑞穂国民学校」という校名に変わりました。戦争が広がるにつれ,体をきたえるのも勉強するのもすべて国のためという教育がおし進められるようになりました。

1940年(昭和15年)からは給食が始まりましたが,戦争のためしだいに物資が不足し,満足にできませんでした。

また,1942年(昭和17年)には,防火用の貯水槽をかねたプールがつくられました。空襲が激しくなった1944年(昭和19年)には,プールの白い壁も爆撃から逃れるため黒色に塗り替えられました。

1943年(昭和18年)には,空襲に備えて防空壕が校庭にいくつも掘られました。


このころ,子どもたちは防空頭巾をかぶり,爆弾から身を守ろうとしました。また親元を離れて岐阜県に集団疎開をすることになりました。

しかし,1945年(昭和20年)3月12日の夜,学校はとうとう空襲のため全焼してしまいました。

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