塩の章(平安−鎌倉)

(一) 
 マサカドという名前は、本地村の小さな子どもでさえも知っていた。おとなたちは、言うことを聞かない子どもには「マサカドが来るぞー!」と言っておどかしていた。子どもたちの心には、<マサカドは恐いもの>というイメージができあがっていたのである。マサカドというのはもちろん、平将門(たいらのまさかど)のことである。

 平将門は関東の
鎮守府将軍の子どもに生まれ、小さい頃から心の優しい力持ちとして周りの村々にまで名前が知れわたっていた。それがなぜ、恐れられるような存在になってしまったのかは、この章の話を進めながら説明していきたいと思う。
 平吉の家は、元々漁師の家であった。父が若い頃には、小船を出して伊勢の国の近くまで魚をとりにいっていたという話を平吉は父から何度となく聞かされてきた。平吉も今年で十四歳になる。今年からは父の手伝いとして、一緒に船に乗ったり、網を修繕したりするように言われていた。平吉も海が大好きだったので、何年も前から、わくわくしていたのである。 平吉は、母と祖母の畑仕事を手伝いながら、夕日に染まるあゆちの海をながめては、自分が海に出たときの想像をしていたのである。
  6月の穏やかな日、平吉は父と小船に乗って初めての漁にでかけた。西暦930年、将門の乱が起きる5年前のことである。その日のあゆち潟は波もなく、6月の海にしては静か過ぎるほどであった。そのため、ついつい反対側の桑名郡の方まで出かけてしまった。
「こりゃ、しまったー!」と父がつぶやいたのを聞いた平吉は、
「おとう、どうしたんだ?」と聞いた。
「ここは、桑名のなわばりだぞ。見つかったらひともんちゃく起きてまうがや。」
 船の舳先を戻そうとした時、陸でこちらに手を振っている若者がいるのに気が付いた。こちらに向かって、何か叫んでいるのである。
「おーーーい!乗せてくださらぬかーー。」
 見たところ、身なりのきちんとした公家のようないでたちである。平吉の父は、(人を乗せていれば、漁をしていたと思われないかもしれない。)と考えて、陸に小船を寄せた。
「いやー、助かりました。京から東国に戻る途中、この海にいきあたってしまい、難儀しておりました。」
 にこにこと笑った顔がくしゃくしゃになる、公家の服装とは不釣合いな若者だった。 「私は、相馬小次郎と申します。京の藤原忠平のところで修行奉公しておったのですが、小さい人間だったので飛び出てきてしまいました。
と、自分のいきさつを話してからからと豪快に笑うのである。
 相馬小次郎とは、後に平将門と名乗って反乱を起こす豪族の若い頃の名前であった。小次郎は、京都の貴族である藤原忠平のところに仕えていたのであるが、短気なところが都の貴族ののんびりした生活とたびたびぶつかってしまい、とうとう我慢できなくなって自分の国に帰るところであった。鈴鹿峠を越えてきたのだが、桑名であゆちの海に出て、渡る舟もなく困っていたところだったのだ。
 平吉は、舟の上で小次郎と話すうちに、すっかり好きになってしまった。それは、小次郎の地理の広さからくる博識なところと、今まで自分が知らなかったことを、おもしろおかしく話してくれる小次郎の気さくさがそうさせたのかもしれない。本地村に着いた頃には、すっかり夜になっていて、平吉の家で泊まって行くという話も決まっていた。

(二)  

 小次郎は、一晩だけとめてもらうつもりでいたのだが、親子のもてなしと本地村の住みよいところがすっかり気に入ってしまい、数日間滞在してしまった。
 滞在中、となりの笠寺村に再興されつつあった小松寺
(現在の笠寺観音)を見に行った。小松寺は、荒れ果てた堂宇にあった観音像に、地元の娘が笠をかぶせたことが京の貴族である藤原兼平の気を引き、兼平の援助で再興中であった。小次郎は、京で顔見知りの大工を見つけたので、自分が飛び出してきた後の様子を聞いてみたのだが、詳しいことは分からなかった。平吉は、笠をかぶせた娘とは知り合いであったため、再興現場に来ていた娘を見つけ話しかけた。

「おねーちゃん。お寺が立派になってよかったね。」
「平ちゃん、ありがとう。そちらの方は・・見覚えがある気がするんだけど・・」

 小次郎は、京では検非違使として働いていたので、今は京で生活していた娘(玉照姫)は顔を見たことがあったのだろう。
「このお兄ちゃんは小次郎さんだよ。京いたから、おねーちゃんも知ってるんじゃない?」
「わたしは小次郎と申します。京では忠平様のお屋敷でお世話になっておりました。」
「だから、お顔を見たことがあるのね。」

 玉照姫を娶った藤原兼平と小次郎がいた藤原忠平とは親戚関係であった。それほど仲はよくなかったが、交流は盛んであったため、歌会などで警護に来ていた小次郎を見たことがあったのだろう。
 さらに、娘は、京で噂になっている話題を持ち出したのだ。
「先日の清涼殿の落雷は、とてもひどかったそうですね。なんでも、菅原様の怨霊だとか・・。」

 小次郎は、その日、清涼殿で警護をしていたので、その現場を見ていたのである。
「恐ろしい雷でした。菅原様も・・」
と言いかけて小次郎はやめた。(自分は、藤原家を見限ってきた人間である。藤原家に嫁いだ玉照姫に、藤原の悪口になるようなことは聞かせるべきではない。)
 
小次郎が京を出る直接のきっかけとなったのは、その清涼殿の落雷事件であった。無実の菅原道真をおとしいれておいて、単なる自然災害の落雷を死者である道真のせいにして怯え、正一位太政大臣という位まで贈った藤原家に愛想が尽きたのだった。鈴鹿峠を越えながら、自分の住む下総は、おろかな政治をしないようにしようと心を決めていたのである。そんな小次郎が、清涼殿の話をすれば、藤原家の悪口にならないわけがないのである。

 小次郎は、平吉をうながして足早に去り、本地村に戻った。その翌日には、いとまをして自分の故郷である下総に向かって足を急がせていた。ただ、小次郎にとって、本地村での数日間は、一生のうちで楽しい思い出の一つとして、心にしみこんでいたのである。

(三)

小次郎が本地村を離れ、数年たったころ、平吉の耳に関東でのいくさの噂が伝わってきた。
「おとう。蝦夷国の方ですごいいくさが始まってるらしいぞ。なんでも、平将門っていう豪族がすごく強いらしいぞ。」
「その噂ならおらもしっとるぞ。いくら矢が当たってもなんともないっちゅーでねーか。」
「そりゃ、妖怪とちがうか・・・おそがいなあも。」

 実際の話、平将門は強かった。将門自身も強い武将に成長していたのであるが、将門が農民を中心に作った軍は、戦いを知らない関東の軍の敵ではなかった。その強さが噂を呼び、マサカドというのは恐ろしい鬼のような武将だというイメージをもたれてしまったのである。
 小次郎が家に帰ってすぐ、父が亡くなった。その後の土地争いなどから、親戚同士の醜い争いに、小次郎は巻き込まれていくのである。
 ある秋の日、街道は人々が集まって大騒ぎになっていた。

「平将門がもうすぐ通るらしいぞ。」
「将門というのは、あの鬼のような将門か?」

人々の様々な噂が飛び交う中、平吉親子は人々が群れている先頭に出るとすぐ、鳴海の方から行列がやってきた。

「なんでも、親戚に訴えられて、京の都でお調べがあるらしいぞ。」

そんな話を聞きながら、前を通り過ぎる馬の上にいる武将を見た平吉は驚いた。

「小次郎さん・・。おとう、あれは小次郎さんだ。」
「確かに小次郎さんに似ているなあ。」父もうなづいた。

 身なりもずいぶん立派になっていた小次郎は、親子がいることも気がつかなかったが、このあたりが、懐かしい本地村の近くであることは分かっていた。
 平吉親子は、小次郎が平将門であったことを知り、きっと何かの間違いでいくさに巻き込まれたんだろうと考えていた。その思いが伝わり、小次郎が京の帰りに再び本地村に立ち寄ったのは、翌年の5月であった。もちろん、村人たち大勢に歓迎されたことは言うまでもない。
「はるか昔に、このあたりに伝説の剣があったと聞きましたが、それはどこですか?」
小次郎は、平吉の父に尋ねた。
「そりゃ、たぶんこの丘の上の星崎の宮だと思うけどよぉ・・。古い話すぎて、ようわからんわ。」

 伝説の剣というのは、草薙の剣のことである。熱田神宮におさめられる前に、今は星崎の宮が建っている場所には、ヤマトタケルとミヤズヒメの思い出の館が建っていたのである。そのため、星崎の宮に祈願すれば武勇が高くなると、関東の武将の間でささやかれていた。
 次の日、平吉と一緒に、小次郎は星崎の宮を訪れた。境内に入ると、小次郎は急にめまいにおそわれた。夢を見ていたのだ、自分が草薙の剣を持ち、敵を蹴散らしている夢を。我に返った小次郎は、心に決めていた。(熱田の剣を盗んでしまおう。)
 その夜、小次郎は夜中に抜け出し、朝方平吉の家に戻った。だれひとり、熱田神宮から御神体の剣が盗まれたことなど知らなかった。いや、ただ一人の少年を除いては・・。
 小次郎は、翌朝、逃げるようにして本地村を発った。その数日後、本地村に京から一人の少年がやってきたのである。その少年は、星崎の宮に入ると、地面に大きな五角星を描き始めた。描き終わると、その真ん中に座ってなにやら呪文のような言葉を唱え始めたのである。平吉をはじめ、村人は遠巻きにその様子を眺めていた。
「なにやっとるんだ・・?」
「なんかのおまじないみたいなもんだろ?」
「あれは京の陰陽師らしいぞ。」
「あんなに若いのによお、たいしたものだわ。」
「あべの・・・せいめい・・だったかな?」

 そんなまわりの話に耳もかさないで、ひたすら祈った後少年が立つと、地面の五角星は消えていた。少年は、そのまま黙ってどこへともなく去っていったのである。平吉は、少年が去った後、星宮の屋根に五角星がはめこまれたことに気付いた。
「不思議なことがあるものだなあ・・。」
と、だれもが思い、記憶から消えていくできごとだった。

 この少年は、若き日の安倍晴明。熱田神宮から草薙の剣が消えたことを察して、盗んだ者に調伏の行をかけるためにやってきたのである。星宮の星が消えるまで、草薙の剣の力は発揮されないように祈祷をし、持ち主をさらに追っていったのである。

(四)

さて、草薙の剣を持って下総に戻った小次郎は、神剣の力のせいでさらに人々の心をつかんでいた。人々は、将門が訴えられたことに対して恨みに思っていたのである。
「将門様が知らないうちに良兼(将門の伯父)を討ってしまおう。」
「将門様の心配事をなくすんだ。」
と、勝手に軍を起こし、良兼の屋敷まで攻めに行ってしまったのである。

 将門がそれに気付いたのは、第一矢が放たれた後だった。そこから、さらに関東地方の戦いは激しさを増していった。将門は、戦っていくうちに国府を攻め落としてしまい、朝廷を敵に回すことになってしまったのである。さらに、神剣の力が将門の運命を不幸にしていった。
 ある日、巫女が将門のところへやってきたのである。

「八幡大菩薩様のお告げで、将門は新皇となり、この国を治めよ。」
というのである。これが神剣のもつ力のための神託とも気付かず、将門は有頂天になってしまったのである。

 そのころ、本地村と笠寺村では、将門を調伏するための祈りが行われていた。鳥居山にこのあたり一帯にある七柱の神を祭り、平吉親子以外の村人はほとんどが出て、将門を調伏するための祈りが行われていたのである。もちろん、その指示は安倍晴明がしていったのであるが、七柱の神を北斗七星の形に並べ、祈願がかなった折には一つの神社を建ててそこに祭るようにというものであった。
 将門の持つ草薙の剣を追っていた晴明は、将門の国を大きな結界の中に封じようとしていた。そして、その結界は完成しようとしていた。
 晴明は、俵藤太(藤原秀郷)が近くに住んでいることを探し出し、一本の矢を託した。その矢は、藤太が大ムカデを退治した時の弓につがえて射れば、だれも防ぐことができないという特別な矢であった。

 将門の最期の日、戦いが不利になったと見た将門は、わずかな手勢を連れて囲みから逃げ出そうとしていた。しかし、逃げようとするたびに晴明の張った結界にさえぎられて、逃げられずに戦場をうろうろしていた。そこへ、俵藤太が放った矢が、将門の眉間をつらぬき、将門は馬から落ちて死んでしまったのである。
 藤太は、晴明との約束どおり、草薙の剣は晴明にこっそりと渡し、将門の首をはねて京の都まで凱旋したのである。

(五)

 京都で晒されていた首は、目を閉じずにいつも通行する人々をにらみつけていたので、やがて将門の首が置いてある通りは、だれも通らなくなってしまった。そんなある日、検非違使が首の様子を見に来た時に、一人の少年が首に向かってなにやら話しかけていたのである。
 その少年は、安倍晴明であった。晴明は、将門が心の優しい人物であることを知っていたので、呪法によって晒し首を解放しにきたのだった。その夜、将門の首は、東に向かって飛んでいったのである。
 本地村では、平吉親子がいつものようにあゆちの海に出て、漁をしていた。その時、突然、舟のすぐ近くに何か大きなものが飛び込んだのである。それは、京で解放された将門の首であった。そして、海から飛び出て舟の上に飛び乗ってきたのである。二人は腰を抜かすほど驚いたのであるが、小次郎の首は優しい口調でお礼の言葉を述べ、さらに東の方へ飛び去って行った。
 やっと落ち着いた二人が、将門の首のあったあたりを見てみると、白い粉が多量に落ちていた。それをなめた平吉が、
「おとう!これは塩だぞ!小次郎さんが、塩の作り方を教えてくれたんだ。」

 この後、平吉は漁師をやめ、塩作りの研究を始めたのである。晩年になって、ようやく前浜塩の元になる塩作りが完成し、そのお礼として下総の国まで美濃・信濃の国を経由して運ばせたのである。
 やがて、その道は、何百年後には前浜塩を運ぶための塩付街道と呼ばれるようになった。

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