枇杷島小学校のあゆみ (戦前)

 昭和25年2月16日の火災でほぼ全焼したからでしょうか。この学校に関わる古い詳しい資料が、なかなか見つかりませんでした。「開校百周年 枇杷島(昭和49年11月3日発行)」より、抜粋してここに記録していきます。

設立前
 寺小屋での学問は、漢学が中心でした。寺小屋は、清音寺にありました。


明治7年4月
 第二大学区内第一中学区第十四番枇杷島小学校を名古屋枇杷島町・八坂町・枇杷島村の2町1村連合して、枇杷島町字八幡に設立する。

明治11年12月

 中郡区制により、名古屋区を引き離し、春日井郡部に入り八坂町と分離する。

明治17年4月
 仮校舎を町村有とし、大修繕を加える。
仮校舎のあったといわれる現在(昭和49年)の八幡社

明治17年6月
 修繕完了・開校式を挙行する。

古老(昭和49年当時)いわく…最初は八幡社の東鳥居に至る道の両側に並ぶ民家数軒が教室にあてられていた。

明治23年10月30日
 教育勅語渙発される。

明治24年10月28日
 濃尾大震災のため校舎全壊する。早朝のため、職員・児童に被害なし。

明治24年11月3日
 枇杷島町186番地に仮校舎を営み、天長節の祝賀式を行う。同所にて晴天に限り授業を行う。

校章…明治中期より用いられた帽章

明治25年5月
 校舎再建起工する。

明治25年9月
 新小学校令により、枇杷島町立枇杷島尋常小学校と校名を変更する。

明治26年12月22日
 開校式を挙行する。御真影を奉戴する。


当時の服装
普段着   男・女とも紺がすりの着物にへこ帯、わらぞうり
正 装    男  袴、あさうらぞうり
        女  たもとの着物、黒紋付、えび茶の袴、日よりげた

明治33年11月
 奉安殿・宿直室、増築される。

明治34年4月
 法令改正により、授業料の徴収とりやめとなる。



明治39年12月1日

 西春日井郡西部高等小学校が廃校となり、高等科が併設された。
 西春日井郡枇杷島尋常高等小学校と改称し、同日開校式を行う。

明治39年12月2日
 6学級編成となり、元の役場を分教場として使用する。

明治39年12月24日
 高等科 3・4 男 に商業科が加設される。

明治40年11月4日
 校地を現在地に変更することとなり、運動場ができる。

明治41年1月13日

 新校舎完成。移転する。分教場は引き続き使用する。

現在地に建設された校舎全景(第1期工事)

明治41年7月15日
 北校舎に児童を収容し、分教場を廃止する。

昭和43年3月15日
 裁縫室 新築される。

玄関付近(明治43年ごろ)



大正7年4月20日
 校舎1棟、増築される。

大正10年8月22日
 名古屋市に併合のため、校名を名古屋市立枇杷島尋常高等小学校と変更する。

大正12年4月1日
 宿直室、改築する。

大正13年6月15日
 奉安殿、竣工する。

 皇室中心の戦前の教育では、このような奉安殿を作りご真影を奉安して、護持につとめた。

大正14年6月17日
 水道布設工事、完成する。

昭和2年3月5日
 増改築工事、竣工する。

増改築の進む校舎



昭和8年4月24日
 増改築、第一期工事完成する。

完成した校舎

大正15年ごろより校地の拡張を行い、両校舎より木造2階建てに増改築を始める。昭和8年に完成する。


昭和11年3月19日
 二宮金次郎石像、除幕式を行う。


昭和15年8月23日
 校地(校庭南東)を34坪拡張する。

昭和15年11月5日

 中村区新富町を日比津校へ分離する。



昭和16年4月1日

 国民学校令施行により、校名を名古屋市立枇杷島国民学校と改称する。

 国民学校の目標は、皇国民の錬成であった。
 戦争が始まると、教育はすべて戦争目的の貫遂に結びつけられた。

 教育内容
 国民科 (修身・国語・地理・国史)
 理数科 (算数・理科)
 体錬科 (体操・武道)
 芸能科 (音楽・図画工作・習字・裁縫)
 義務教育は8年に延長された。

昭和16年12月8日
 第二次世界大戦(大東亜戦争)始まる。

昭和17年7月29日
 裁縫室を給食調理室に改装する。

昭和19年4月
 学校給食始まる。
 自給のため野菜の農耕を行う。
 ※ この頃より国内は極端な食糧難となる。

 戦争のため、食糧の不足が児童の体位に影響することを考慮して、学校給食が始められた。
 枇杷島も学校の南入口にある建物を改造して調理所とした。副食はみそ汁、主食はパンと米飯であった。

昭和19年5月15日
 保育園開設される。(併設)

昭和19年8月10日
 第一次学童疎開。葉栗郡浅井町の寺院へ180名疎開する。

 昭和19年の中ごろとなって本土空襲も必至となり、平常の授業も困難になった。
 ―おとうさん、おかあさんと離れて暮らすのはさびしいけれど、勝つまではなきません。―
 子どもたちは、親もとを離れて、遠い疎開地で勉強することになった。

昭和19年9月19日
 学徒動員。高等科児童全員、工場へ動員される。

昭和20年3月12日 19日 25日
 空襲により、職員の中にも、罹災や爆死する人が出る。

昭和20年3月20日

 授業中止。学校閉鎖される。

昭和20年4月10日
 第二次学童疎開。全児童、葉栗郡浅井町の8寺院に集団疎開する。
 長誓寺・楼光寺・善徳寺・勝宝寺・頓受寺・運善寺・来徳寺・遍照寺
 残留児童は、学区内4か所に分散指導。

昭和20年4~9月
 名古屋高専理工科学校へ本校校舎の一部を貸与する。

昭和20年5月26日
 高等科児童を浄心校へ分離する。

昭和20年8月14日
 終戦

昭和20年11月5日
 集団疎開を引き揚げ本校に帰還する。

 昭和21年7月
 奉安殿をとりこわす。


 資料は、開校百年紙からです。したがって、昭和49年までのデータです。