そして、昭和31年、1本の大きな橋として架け変えられました。中洲は、その後、昭和33年に河川改修でなくなりました。

 中島の撤去により、慶安年間(1648~1652)に創建されたびわじま黒龍神社も庄内川左岸に移築されました(1953)。現在は、道路改修のために、新社殿に移転しています(2018)。

こちらは、中洲の西側にあった枇杷島小橋です。遠くに枇杷島大橋の鉄橋がかすかに見えます。(右の写真)

 こちらが大正元年に島の東にできた枇杷島大橋の架け変えられたものです。(左の写真)

中の島

 橋ができる前は、現在の堀越(旧地名 船人夫町)から渡し舟を使っていたということです。下の図は、徳川家康が出陣の時に使ったと言われる船橋です。

 
びわじま黒龍神社  拝殿内

中洲は、江戸時代、文禄3年(1691)には、長さ約26メートル、幅約13メートルの島だったと伝えられています。その後は、さらに大きくなり、街並みや学校、役場まであったということです。

区画整理前、大正10年頃の図面を見ると、中洲(中島・中の島)がいかに大きくなっていたかがよくわかります。

江戸時代、橋がかけられた当時は真ん中に小さな島(中洲)がありました。
西の橋を枇杷島小橋と言い、長さ27間(49m)
東の橋を枇杷島大橋と言って長さ72間(130m) あったということです。

当時は、川の氾濫も多く、小田井村(現在の西枇杷島)でも、頻繁に川の氾濫が起きていたということですが、中の島が取り払われた昭和33年以降は、洪水の心配はなくなったということです。